マッハ新書・Twitter・アニハラ

マッハ新書の文章レベルに対する批判

朝Pが、「マッハ新書」と呼ばれる電子書籍の文章レベルについて批判していた。「マッハ新書」とは、BOOTHによれば『執筆からたった12時間後には電子書籍として出版してしまう、いま最も尖ったインディーズ出版(自力出版)の極北』ということらしい。

これらのツイート、表現がかなりキツい。「みんな、ちょっと本気で日本語の勉強し直した方がいい」「匙を投げる」「天を仰ぐ」はなかなか言わない。ぼくがもし同じ意見を言うとしても、「文章を練り、誤字を減らしたほうがより界隈の外に広がるのではないか」「ぼくには意味がとれない表現がいくつかあった」「理解できない」くらいにしか言わない。

読解力が高い人であれば、これらのツイートは罵倒の類と捉えるだろう。このような言われ方をして、素直に「はい、そうですね」と言ってくれる人はいいひとだなあ、と思う。

新車の例えや、バグだらけのプログラムの例えも外している。

新車を買うつもりでマッハ新書は買わないのではないか。「ホテルにいったらベッドが中古品だった」という人は珍しいだろう。

バグだらけのプログラムは、全体として機能していればバグを直すし、バグが機能そのものに影響していたら、そもそもプログラムが用をなしていない。今回指摘された「マッハ新書のバグ」は、機能そのものに影響するほど致命的なものと朝Pはとらえているのだろうが、ぼくはそのバグがあったとしても、全体としては機能しているのではないか、と思っている。

「マッハ新書の文章を校正して、よりよくしよう」という運動なら反感を持たれなかっただろう。ざくざく改善するのもまた「マッハ」の語感が含むところだし、改善提案をざくざく無視してスルーするのもまた「マッハ」な感じがする。

Twitterと推敲

ここまでは朝Pが、Twitterで自分の言いたいことを過不足なく文章で伝えられているという前提のもとでおはなしした。

ぼくは、そうではないのではないかとうたがっている。つまり、「私は日本語の読み取りと修正に関しては自信がある。」朝Pですら、自分が正確に意図するところをTwitter上のツイートでは伝えられていないのではないか。

Twitterのような、マイクロブログとも呼ばれる短文投稿サービス。ふつうのブログならもっと文字数が書けるのに、Twitterでは1ツイートの文字数に制約がある。マイクロブログはブログより、外面的な機能では劣っている。

しかし、「ブログは書かないけれど、Twitterなら書ける」そういうひとはかなりいるのではないか。ぼくはそうだ。機能の制約によって、気軽に投稿しやすいという別の機能を得ている。

マッハ新書も、似たようなところがある。「執筆からたった12時間後には電子書籍として出版」ということは、校正などに十分な時間をとることができないことを意味する。これって、劣ってますよね。でも、そのような制約によって、気軽に出版しやすいという別の機能を得ている。

すごく雑に要約した極端な主張をすれば、「マッハ新書は誤字があるから価値がある」のだ。

朝Pの「こうしたムーブメントに対して、私が共感的で、かつ極力味方をしようとする人間である」という主張。彼の心情的にはそうなんだろう。しかし、マッハ新書の中心となる価値感そのものに対しては、実は共感的ではないのではないか。

さて、Twitterは訂正・更新機能がないため、誤字やわかりにくい文章があったとしても、ツイ消しをして再投稿するか、リプライで補足するか、そのまま放置するか、これらのような対応しかできない。ぼくは、反応がない段階ならツイ消しして再投稿するけど、反応があればそのまま放置する。それで十分だし、誤字などを指摘されても「そうですね」としか思わない。

そういった制約があるため、細かな表現の差によって伝わり方が変わるような文章などは、Twitterで発表することをさけている。人の間違えをただしたり、ネガティブな感想だったり、人との議論だったり、こういったもツイートは細かな表現の差によって伝わり方が変わる代表例だ。

Twitterは「マッハブログ」だ。勢いが大事。なので、誤字があってもいいし、誤字があってはならないようなものは投稿しないようにしている。

マッハ新書と界隈

元の朝Pの一連のツイートは、「界隈の外に広がる」ことを是とし、そのためには文章の品質を上げることが必要だと主張している。前提として、GOROmanさんが全ての出版社は多分潰れるというマッハ新書を出しており、マッハ新書のような形態が既存の出版を駆逐していくことを志向しているだろう、という読みがある。既存の出版を駆逐するためには、「界隈の外に広がる」ことが必要ですね、ということだ。

ぼくの予想としては、マッハ新書は「界隈の外に広がる」ことはないと思っている。しかし、その「界隈」そのものが広がっていくのではないか。つまり、「界隈の外」に通用しなくても、「界隈」に属する人が増えるため、結局は「通用する人は増加していく」ということだ。

マッハ新書のような「文章2.0」を読むには、ある程度のリテラシが必要となる。

ところてんさんが提案する「箇条書き」でのマッハ新書は、まさに「文章2.0」を志向したものだ。箇条書きの文章から、言いたいことをうまく取り出せない人は、はなから相手にしていない。

漫画ですら、読み方を知らないとコマを追えない。昔の漫画にはコマの隅っこに番号が振ってあったが、今の漫画ではぼくは見かけない。コマ順がわからないひとは相手にしていないのだろう。ほとんどの読者は「コマ順がわかる界隈」に属していて、問題となっていないのではないか。

GOROmanさんの「礼儀2.0」のツイートにも通じる。「礼儀1.0」の人、すなわち「界隈の外」の人に対しては、「礼儀2.0」は通用しない。しかし、「礼儀2.0界隈」の人は増えていくだろう。

アニハラと界隈

nobiさんという方が、Unite Tokyoというイベントに出席した際に「オタクアニメ演出が生理的にムリ」とツイートしていた。

ぼくの感想は卜部さんの以下の感想に近い。男性でもアニメ嫌いなひとはいるし、女性でもアニメ好きなひとはいる。

界隈のなかである種のネタが通用しやすいと、そのネタは多用される。IT技術イベントではアニメだったりするし、他の界隈ではまた違ったネタが使われるのだろう。

「このネタ、みんな好きだろ?」という同調圧力がキツい、というのはわかる。

ぼくは相手が「礼儀1.0なのか2.0なのか」「文書1.0なのか2.0なのか」「アニメ好きなのかそうでなのか」どのような考え方や価値観で生きているかを見極めて、適切に発信方法を変えたい。

広く情報を伝えたい場合には、1.0と2.0コンパチブルな領域だけにとどめるし、ある種のグループに強烈にメッセージを伝えたいのであれば、より踏み込んだ表現を使う。

というマッハエントリ。noteで文章を書いているので、興味があれば購読してほしい。