マッハ新書・Twitter・アニハラ
マッハ新書の文章レベルに対する批判
朝Pが、「マッハ新書」と呼ばれる電子書籍の文章レベルについて批判していた。「マッハ新書」とは、BOOTHによれば『執筆からたった12時間後には電子書籍として出版してしまう、いま最も尖ったインディーズ出版(自力出版)の極北』ということらしい。
#マッハ新書 、4~5冊読んだけど、みんな、ちょっと本気で日本語の勉強し直した方がいい。「これなら何とかなる」という水準の著者さんには連絡して校正を送っているけど、匙を投げたものも2冊。これで文庫や新書と同等の価格って天を仰ぐよ。断言する。この言語品質じゃ界隈の外には絶対広がらない。
— 丹治吉順 a.k.a. 朝P (@tanji_y) 2018年5月8日
しかもその匙を投げた2冊って、#マッハ新書 界隈では高評価だったりするのがもう「頭痛が激痛」レベル。新車を買いに行って、ボディの素材はよくても、塗装がはげていたり、シートの縫い目がほつれていたり、ウインカーレバーを左に倒したら右のウインカーが点滅したりしたら、買う気になりますか?
— 丹治吉順 a.k.a. 朝P (@tanji_y) 2018年5月8日
こうしたムーブメントに対して、私が共感的で、かつ極力味方をしようとする人間であることは理解してもらっていると思うけれど、その私がこのように反応するのであれば、そうでない人々、批判的ですらない、中間的な立場の人の反応は推して知るべし。知ってほしい。
— 丹治吉順 a.k.a. 朝P (@tanji_y) 2018年5月8日
#マッハ新書 は面白いムーブメントだと思う。だがそれが「最低限の品質」すら置いてけぼりにする形で進むのであれば、決して外には広がらない。
— 丹治吉順 a.k.a. 朝P (@tanji_y) 2018年5月8日
誤解なきように。私が記者だから文章に厳しいのではない。逆です。自分の言語能力の限りを尽くし、最大限に解釈を拡大して読み取っている。その私ですら解釈できない、あるいは筆者本人の意図とは逆としか読み取れない表現が少なくない。これが「普通の客」だったらどう反応するか。お金払ってるのよ?
— 丹治吉順 a.k.a. 朝P (@tanji_y) 2018年5月8日
バグだらけのプログラムには、みんなボロカス言うでしょ。「直せねえよ」って言うでしょ。プログラムではないけれど、私は日本語の読み取りと修正に関しては自信がある。投書担当も2年以上やって、素人さんの文章も大量に読んだ。日本語のデバッグでは業界一線級と思っている。その私が匙を投げる。
— 丹治吉順 a.k.a. 朝P (@tanji_y) 2018年5月8日
これらのツイート、表現がかなりキツい。「みんな、ちょっと本気で日本語の勉強し直した方がいい」「匙を投げる」「天を仰ぐ」はなかなか言わない。ぼくがもし同じ意見を言うとしても、「文章を練り、誤字を減らしたほうがより界隈の外に広がるのではないか」「ぼくには意味がとれない表現がいくつかあった」「理解できない」くらいにしか言わない。
読解力が高い人であれば、これらのツイートは罵倒の類と捉えるだろう。このような言われ方をして、素直に「はい、そうですね」と言ってくれる人はいいひとだなあ、と思う。
新車の例えや、バグだらけのプログラムの例えも外している。
新車を買うつもりでマッハ新書は買わないのではないか。「ホテルにいったらベッドが中古品だった」という人は珍しいだろう。
バグだらけのプログラムは、全体として機能していればバグを直すし、バグが機能そのものに影響していたら、そもそもプログラムが用をなしていない。今回指摘された「マッハ新書のバグ」は、機能そのものに影響するほど致命的なものと朝Pはとらえているのだろうが、ぼくはそのバグがあったとしても、全体としては機能しているのではないか、と思っている。
「マッハ新書の文章を校正して、よりよくしよう」という運動なら反感を持たれなかっただろう。ざくざく改善するのもまた「マッハ」の語感が含むところだし、改善提案をざくざく無視してスルーするのもまた「マッハ」な感じがする。
Twitterと推敲
ここまでは朝Pが、Twitterで自分の言いたいことを過不足なく文章で伝えられているという前提のもとでおはなしした。
ぼくは、そうではないのではないかとうたがっている。つまり、「私は日本語の読み取りと修正に関しては自信がある。」朝Pですら、自分が正確に意図するところをTwitter上のツイートでは伝えられていないのではないか。
Twitterのような、マイクロブログとも呼ばれる短文投稿サービス。ふつうのブログならもっと文字数が書けるのに、Twitterでは1ツイートの文字数に制約がある。マイクロブログはブログより、外面的な機能では劣っている。
しかし、「ブログは書かないけれど、Twitterなら書ける」そういうひとはかなりいるのではないか。ぼくはそうだ。機能の制約によって、気軽に投稿しやすいという別の機能を得ている。
マッハ新書も、似たようなところがある。「執筆からたった12時間後には電子書籍として出版」ということは、校正などに十分な時間をとることができないことを意味する。これって、劣ってますよね。でも、そのような制約によって、気軽に出版しやすいという別の機能を得ている。
すごく雑に要約した極端な主張をすれば、「マッハ新書は誤字があるから価値がある」のだ。
朝Pの「こうしたムーブメントに対して、私が共感的で、かつ極力味方をしようとする人間である」という主張。彼の心情的にはそうなんだろう。しかし、マッハ新書の中心となる価値感そのものに対しては、実は共感的ではないのではないか。
さて、Twitterは訂正・更新機能がないため、誤字やわかりにくい文章があったとしても、ツイ消しをして再投稿するか、リプライで補足するか、そのまま放置するか、これらのような対応しかできない。ぼくは、反応がない段階ならツイ消しして再投稿するけど、反応があればそのまま放置する。それで十分だし、誤字などを指摘されても「そうですね」としか思わない。
そういった制約があるため、細かな表現の差によって伝わり方が変わるような文章などは、Twitterで発表することをさけている。人の間違えをただしたり、ネガティブな感想だったり、人との議論だったり、こういったもツイートは細かな表現の差によって伝わり方が変わる代表例だ。
Twitterは「マッハブログ」だ。勢いが大事。なので、誤字があってもいいし、誤字があってはならないようなものは投稿しないようにしている。
マッハ新書と界隈
元の朝Pの一連のツイートは、「界隈の外に広がる」ことを是とし、そのためには文章の品質を上げることが必要だと主張している。前提として、GOROmanさんが全ての出版社は多分潰れるというマッハ新書を出しており、マッハ新書のような形態が既存の出版を駆逐していくことを志向しているだろう、という読みがある。既存の出版を駆逐するためには、「界隈の外に広がる」ことが必要ですね、ということだ。
ぼくの予想としては、マッハ新書は「界隈の外に広がる」ことはないと思っている。しかし、その「界隈」そのものが広がっていくのではないか。つまり、「界隈の外」に通用しなくても、「界隈」に属する人が増えるため、結局は「通用する人は増加していく」ということだ。
マッハ新書のような「文章2.0」を読むには、ある程度のリテラシが必要となる。
ところてんさんが提案する「箇条書き」でのマッハ新書は、まさに「文章2.0」を志向したものだ。箇条書きの文章から、言いたいことをうまく取り出せない人は、はなから相手にしていない。
電子書籍の時代では、もはや箇条書きでいいんじゃないかという気がしてきた。箇条書きならマッハで書ける。
— ところてん (@tokoroten) 2018年4月30日
文章という形態は、どうしても直列になってしまうので、並列概念をうまく取り扱えない。
接続詞を読者が暗黙的に補えれば、箇条書きで十分意味は伝わる。
#マッハ新書 pic.twitter.com/gQViHUT6oz
漫画ですら、読み方を知らないとコマを追えない。昔の漫画にはコマの隅っこに番号が振ってあったが、今の漫画ではぼくは見かけない。コマ順がわからないひとは相手にしていないのだろう。ほとんどの読者は「コマ順がわかる界隈」に属していて、問題となっていないのではないか。
小5女子と話をしててヤバいなと思ったのは、彼女曰く「紙の漫画の読み方が判らない(コマの順が判らない)」と。スマホの漫画は読める、と。そういえば談話室の漫画本、読んでるのは男子ばかりだと今更に気が付いた。彼らには幼稚園から読めるコロコロがあるけど、女子にはそれに該当するものがないのだ
— じゃりねこは本を作りたい (@jyaricat) 2018年5月3日
GOROmanさんの「礼儀2.0」のツイートにも通じる。「礼儀1.0」の人、すなわち「界隈の外」の人に対しては、「礼儀2.0」は通用しない。しかし、「礼儀2.0界隈」の人は増えていくだろう。
礼儀の定義が変わってきてる気がした
— GOROman (@GOROman) 2018年4月13日
礼儀1.0
相手を重んじる。自分の時間を犠牲にし、時間を相手のために使う。直接会う。スーツなど服装をわきまえる。
礼儀2.0
相手の時間を奪わないようにする(電話しない、リモートで済むものはリモート)
アニハラと界隈
nobiさんという方が、Unite Tokyoというイベントに出席した際に「オタクアニメ演出が生理的にムリ」とツイートしていた。
参加してた技術系イベント、覚悟してたけどオタクアニメ演出多かった。生理的にムリで初日はツイッターで愚痴り反省、2日目からその手の演出3つ目で黙って部屋出る路線。招待者に申し訳ないと思ってた。でも、参加してた女性数人に男性なのに代弁してくれたと感謝された。来年にむけてのフィードバック
— Nobi Hayashi 林信行 (@nobi) 2018年5月9日
ぼくの感想は卜部さんの以下の感想に近い。男性でもアニメ嫌いなひとはいるし、女性でもアニメ好きなひとはいる。
- 「私はアニメが嫌いです」→分かりました、配慮が必要ですね
— Urabe, Shyouhei (@shyouhei) 2018年5月10日
- 「女性はアニメが嫌いです」→ふざけんなボケナス、当事者でもない癖に女性を代弁しようとしやがって
こうでしょ。いつものやつ。
界隈のなかである種のネタが通用しやすいと、そのネタは多用される。IT技術イベントではアニメだったりするし、他の界隈ではまた違ったネタが使われるのだろう。
なるほろ。つまりアニメがかつての『野球』ポジションになってきた訳だ。
— Shamo_ji (@Shamoji17) 2018年5月10日
……ところで、当時、野球に対して同じような意見が公共に流れたことあったかなー?
今になって「アニメ放送中止になるから野球嫌いだった」って話は流れてくるけど。
「ベースボールハラスメント」……長いな「球ハラ」? https://t.co/8xlrpALUeu
「このネタ、みんな好きだろ?」という同調圧力がキツい、というのはわかる。
ぼくは相手が「礼儀1.0なのか2.0なのか」「文書1.0なのか2.0なのか」「アニメ好きなのかそうでなのか」どのような考え方や価値観で生きているかを見極めて、適切に発信方法を変えたい。
広く情報を伝えたい場合には、1.0と2.0コンパチブルな領域だけにとどめるし、ある種のグループに強烈にメッセージを伝えたいのであれば、より踏み込んだ表現を使う。
というマッハエントリ。noteで文章を書いているので、興味があれば購読してほしい。
noteで雑記を公開しています。月777円。
— グニャラくん (@gunyarakun) 2018年1月28日
ブログやTwitterで書きづらい日々のよしなしごとを綴っています。各ノートの冒頭は読めるようにしてあるので、パラパラ見てやってください。https://t.co/cxMrNMhNSJ